2018年7月10日火曜日

講師紹介のサンプル

あの人に会いたい(講師紹介アーカイブ)

山田龍司  山田餅本店2代当主 昭和8年~平成14年
ジャンル 餅・餅菓子
担当講義 餅と団子  昭和00年~00年
新制 瑞陵高校卒/製菓衛生士/職業訓練指導員
(株)山田餅本店 代表取締役社長/名古屋市食品衛生協会瑞穂支部長/瑞穂通商店街振興組合理事長
昭和2年に創業の山田餅本店 初代当主山田米蔵の長男として生まれる。
汐路小学校、汐路中学校ではクラス委員長を務めた。同級生の人望が厚く、同窓会のまとめ役として尽くした。瑞陵高校では、9人制バレーボールに所属した。
大学には進まず、東京製菓学校で洋菓子の講習を受けて、餅、和菓子、パンを作っていた山田餅に、当時流行のはしり、洋菓子を導入した。
バタークリームが主流だった当時、デコレーションにバラの花を飾った。
龍司はバタークリームで作る手作りのバラの花が得意だった。
クリスマス前になると夜通し仕事して、バラを作った。そんな「時代」だった。
山田餅は高校の購買パンを作っていた。お昼ごはんに学生が買って食べるアレである。
コンビニなどあろうはずもない時代、今や大企業の「フジパン」も数多あるパン屋さんのひとつだった。瑞陵高校、明和高校、お昼に間に合うように、黒い大きな荷台のついた自転車に木箱のばんじゅうに詰めたパンを運ぶ。
若者は腹が減る。アイデアマンだった龍司はコッペパンに焼きそばをはさんでみた。
当時、パンと言えばジャム、クリームなど甘いフィリングが当たり前だった。
日本初の惣菜パン、「焼きそばパン」の誕生である。証拠はないが、少なくとも同時多発的に発生したかもしれない惣菜パンを、龍司が思いついた。パン屋さん仲間が皆、聞きに来た、と、うちの誰かが言っていた。
物事の始まりというもの、黎明期には面白いことが起きる。そんな時代だった。
名古屋市食品衛生協会瑞穂支部長として、毎年、食品衛生パレード、衛生講習会、施設見学会などを催し、食品衛生の普及に尽力した。
学校の講師として、自店において餅の講義をした。大型の餅つき機を使った実演の授業は学生に大好評だった。餅、赤飯、大福餅などを教えた。
商店街理事長としての最大の企画は平成9年10月1日、名古屋市博物館の開館20周年を記念した、「ガーデンコンサート」の開催である。
名古屋フィルハーモニー、指揮者の00氏を招聘。博物館庭園で行われたガーデンコンサートに500人余の聴衆を集めた。
その後も毎年、夏祭りやチャリティもちつき大会を精力的に開催した。
初代米蔵が一代で起こした方向性のない山田餅を、龍司が、まとめあげた、というか整理して、後世につなげてくれた。

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